荒城の月の歌詞の意味は?

歌唱授業

「荒城の月」歌詞の意味や作曲背景などのポイントを総まとめ!

元中学校音楽教師のめりーです。過去の授業経験を基に「荒城の月」のポイントをご紹介します。

哀愁漂う旋律と歌詞が心にしみる日本の名曲「荒城の月」。

教科書にも掲載されているので、今まさに授業準備をしている、あるいはテスト勉強中という方も多いと思います。

そこで、この記事では、「荒城の月」の歌詞の意味や作曲背景など学習する上でのポイントをご紹介します。

学生の皆さんはもちろん、これから授業を行う先生方のお役に立てれば幸いです。

\「荒城の月」の授業例はこちら!/


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「荒城の月」のポイント

1.作詞者は?

(画像はWikipediaより引用)

作詞者は、明治から昭和時代に活躍した詩人、土井晩翠(1871~1952)。

彼の作品は男性的な漢詩調の詩風で、同時期に活躍した女性的な詩風の島崎藤村と並んで「藤晩時代」と称されたそうです。

校歌や寮歌を多く作詞していたようなので、名前を聞いたことがある方も多いかもしれませんね。

2.作曲者は?

(画像はWikipediaより引用)

曲を作ったのは、日本を代表する作曲家、滝廉太郎(1879~1903)。

彼は「」や「箱根八里」、「お正月」など歌曲を多く残していますが、実は日本人で初めてピアノ独奏曲を作った人物でもあります。

そのピアノ曲がこちら。「メヌエット」です。

ちなみに彼の最後の作品「憾(うらみ)」も歌曲ではなく、ピアノ曲です。

さて、作詞者と作曲者について簡単にご紹介しましたが、名曲「荒城の月」はどのように誕生したのでしょうか?

3.曲が作られた背景は?

「荒城の月」が発表されたのは1901年(明治34年)のこと。

当時の日本では「蛍の光」や「仰げば尊し」など、西洋音楽に日本語の歌詞を当てはめた歌曲が主流でした。

そんな中、1898年に東京音楽学校(現 東京藝術大学)から中学唱歌用の歌詞を委託された土井晩翠は「荒城月」を作詞。

この詩に曲を付ける公募を行い、滝廉太郎の旋律が採用されて「荒城の月」は完成したのです。

また、「荒城の月」は、ヨナ抜き音階(日本風の旋律)ではなく西洋音楽の旋律で作られた初めての歌曲で、歴史的にも重要な曲とされています。

では、そんな「荒城の月」の歌詞はどのような意味なのでしょうか?

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4.歌詞の意味は?

こちらが「荒城の月」の歌詞です。

黄色い網掛け部分の意味は以下の通り。

高楼:高い建物
花の宴:花見の宴会
千代の松が枝:古い松の枝
植うる剣:植えたように立ち並ぶ剣
照りそいし:照り輝いた
荒城:荒れ果てた城
夜半の月:真夜中の美しい月
かずら:つる草
天上影:月の光
栄枯:栄えたり衰えたり

これを踏まえて、歌詞全体を訳したものがこちら。私が授業で説明していたものなので、中学生にも分かりやすいよう簡単な言葉で表現しています。

春、城内で花見の宴会が開かれ、みんなで回し飲みした盃に月の光が映っていた。華やかで賑わっていた城の面影はもうなく、古い松の枝からこぼれ落ちた昔の栄華は今どこにあるのだろう。

秋、陣営の中は、まるで霜のように冷たい空気が張り詰め、空を行く雁の鳴き声が響く。植えたように立ち並ぶ剣が照り輝いていたが、あの昔の光は今どこにあるのだろう。

荒れ果てた城跡を真夜中の美しい月が照らす。その光は昔と変わらないが、人もいないのに誰のために光っているのだろう。石垣に残っているのはつる草のみ。松の枝を鳴らすのは風の音だけ。

月の光の輝きは昔と変わらないが、今も世の中の栄枯盛衰を映そうとしているのだろうか。ああ 荒城を照らす月よ。

単にお城や月の様子を表した歌詞ではなく、栄枯盛衰をうたったものであることが分かると思います。

土井晩翠は、なぜこのような詩を思い付いたのでしょうか。

どうやらモデルとなった城が関係しているようなので、ご紹介します。

5.モデルとなった城は?

鶴ヶ城 ※画像はWikipediaより引用)

土井晩翠が「荒城の月」の詩を作り始めたとき、最初に頭に浮かんだのが、福島県会津若松市にある鶴ヶ城だったそうです。

鶴ヶ城には、戊辰戦争時に多くの若い兵士が自害したという歴史があります。

戦争終結後の明治7年に取り壊されたのですが、土井晩翠が見たのは、そのわずか10年後のこと。

この時に見た鶴ヶ城の姿と、故郷である宮城県仙台市青葉城を重ね合わせて「荒城月」は書かれたようです。

青葉城 ※画像はWikipediaより引用)

ちなみに、「垣に残るはただかずら 松に歌うはただあらし」の部分は青葉城の様子であると本人が「晩翠放談」にて語っています。

また、作曲者の滝廉太郎も、音楽家を志すきっかけとなった大分県竹田市にある岡城に強い思いを抱き、自ら「古城」という詩を書き、曲を付けようとしていました。

ですが、土井晩翠の詩と出会い、その力強さに感銘を受け、自らの詩ではなく「荒城月」に曲を付けたことで、名曲「荒城の月」が誕生したのです。

6.土井晩翠と滝廉太郎は会ったことがある!?

「荒城の月」が誕生した経緯には、作詞者と作曲者に直接的なつながりがなさそうですが、実は、この2人は会ったことがあるのです。

というのは、滝廉太郎はドイツ留学中に結核となり、たった2ヶ月で泣く泣く帰国したのは有名な話。

どうやらその帰り道、ロンドンで停泊中の滝廉太郎のもとに、たまたまヨーロッパを遊学中だった土井晩翠が見舞いで訪れたというエピソードが残っています。

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7.編曲版との違いは?

さて、「荒城の月」は、「赤とんぼ」の作曲者、山田耕筰によって1917年に編曲されています。

原曲と編曲版の冒頭の楽譜を比較してみます。

楽譜を見て分かる通り、主な変更点は以下の6つです。

①速度を半分の遅さへ
②旋律のリズムを変更(→8小節から16小節に変更)
③ロ短調からニ短調に移調
④ピアノパートを追加
⑤3小節目の♯を削除
⑥強弱記号の変更

特に曲の雰囲気をがらりと変えているのが、⑥3小節目の♯を削除したこと。

これについては、外国で歌うことの多い三浦環に編曲を依頼された際、原曲のままだと外国人はハンガリー民謡を連想するだろうと思い、より日本風に聴こえるように変更したと言われています。

8.似ている曲がある!?

「荒城の月」は、メンデルスゾーン作曲「交響曲第3番『スコットランド』」の第1楽章に似ていると指摘されることがあります。

確かに旋律の動きや曲の雰囲気が似ていますね。

この曲が日本で初演されたのは、「荒城の月」作曲の数か月前のことで、当時、東京音楽学校の研究員だった滝廉太郎が聴いていた可能性はありそうです。

また、滝廉太郎はメンデルスゾーンが創設したライプツィヒ音楽院に留学していたので、何らかしら影響は受けていそうな気がします。

滝廉太郎とメンデルスゾーンの曲の類似は他にもあるようなので、調べてみるのも面白いかもしれません。

9.海外でもカバーされている!

日本のみならず、海外でも"ジャパニーズソング"として親しまれている「荒城の月」。

特にセロニアス・モンクによるこちらのアレンジは有名で、最近ではミュージカル映画「ラ・ラ・ランド」にも登場しました。

原曲とは違った雰囲気で、かなりおしゃれにアレンジされています。

他にも様々なアーティストがカバーをしているので、ぜひいろいろと聴き比べてみてくださいね。

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まとめ

というわけで、この記事では「荒城の月」のポイントをご紹介しました。

今後、皆さんがこの曲を聴いたり歌ったり、授業で教えたりする際にお役立ていただければ幸いです。

最後までご覧いただきありがとうございました。

尚、記事の冒頭でもご紹介しましたが、「荒城の月」の授業例(指導略案とワークシート)こちらのnoteをご覧ください。

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